白馬岳登山と山案内人の歴史

今年で100周辺を迎える白馬山案内人組合。その歩みは白馬登山の、そして日本の登山史とともにありました。
ここでは時代ごとの主なトピックを中心に、その沿革を振り返ります。

前史─近代登山夜明け前

有史以来、山は狩猟や山菜、キノコ採りといった生活の糧を得る場でした。薬草や硫黄採集も盛んだったようです。地元で暮らす3人の知識人が案内人とともに白馬岳を目指したのが明治16年。これが登頂を目的とした最初の白馬岳登山だったと言われています。以後、高山植物など自然科学の研究者たちが頻繁に白馬の山を訪れます。同時に陸軍による日本初の本格的な測量や、鉱山事業などもスタート。まだ登山道が整備されていないこの時代にあって、道なき道の案内や装備資材の運搬を担ったのが、地元の山をよく知る白馬山麓の人間でした。明治38年には日本山岳会が発足。以後、日本中の主だった山々が登山の対象になりはじめます。こうして明治30年代後半以降、白馬の山への入山者が急増すると同時に、案内人の需要が増していきました。

1883年(明治16年)
北安曇郡長、大町及び北城小学校長の3名が、案内人と共に白馬岳登山
1893年(明治26年)
陸軍参謀本部陸地測量部が白馬岳山頂に一等三角点を設置
1894年(明治27年)
ウォルター・ウェストンが蓮華温泉から白馬岳に登頂
1897年(明治30年)
白馬大雪渓で銅の鉱脈を発見。明治35年から数年間採鉱される
1906年(明治39年)
岩室を改造し「頂上小屋」に。日本で最初の営業山小屋となる

黎明期─山案内人組合の誕生

時代は大正に変わり、5万分の1地形図が誕生して登山者に好評を得るものの、まだまだ情報は少なく、登山には山案内人の存在が欠かせないものでした。また、遠方からの登山者は山の往き帰りで麓に泊まる必要があり、やがて山案内人の家に宿泊するようになります。これが日本の民宿の発祥とされています。当時、それぞれの山域の入山口にあたる各集落には多くの山案内人が存在しました。その需要が高まるなかで、それまでまちまちだった集客方法や案内料などを整合する必要性に迫られます。そこでまずは大町地区に日本で最初の登山案内人組合が結成され、2年後には細野集落(現・八方地区)で「白馬岳登山案内者組合」が誕生。ここから現在の「白馬山案内人組合」の歴史が始まります。毎年5月下旬に開催されるイベント「貞逸祭・白馬連峰開山祭」の名称は、白馬山案内人組合の初代組合長であり、日本初の営業山小屋(現・白馬山荘)を開業するなど近代登山とスキーの普及に貢献した松沢貞逸の名に由来しています。

1913年(大正2年)
陸軍省陸地測量部が5万分の1地形図「白馬岳」発刊
1919年(大正8年)
白馬山麓の山案内人25人で「白馬岳登山案内者組合」を設立
1919年(大正8年)
長野県の予算で石室式山小屋(現・村営頂上宿舎)が完成
1922年(大正11年)
文部省が「白馬連山高山植物帯」を天然記念物に指定
1925年(大正14年)
猿倉に村営の山小屋建設

戦前─登山家となったガイドたち

昭和に入り、山案内人には親の後を継ぐ二代目が登場してきます。そうした若い世代の山案内人たちは、当時の登山界をリードした大学山岳部のメンバーと組むことにより、より困難な積雪期登山やバリエーションルート登攀、海外登山に挑戦するようになります。また、登山にスキーを導入すると同時に、スキー技術の向上を目指しました。そうした積極的な活動が、昭和6年の白馬岳主稜初登攀や、白馬案内人組合員としては初の海外遠征となる昭和12年の積雪期台湾中央山脈遠征といった成果に結実していきます。こうして白馬案内人は、地元の山に精通した案内役という存在から、オールシーズンに対応できるガイドへとステップアップを果たし、広く日本の山岳界に認められるようになります。

1929年(昭和4年)
細野(現・八方地区)のガイド12名により「細野山岳スキークラブ」結成
1931年(昭和6年)
ガイド1名と大学山岳部2名により白馬岳主稜初登攀
1934年(昭和9年)
北アルプス全域が「中部山岳国立公園」に指定
1937年(昭和12年)
八方尾根に第1、第2、第3ケルン建立
1941年(昭和41年)
白馬岳頂上に展望方位盤完成。新田次郎著『強力伝』のモデルとなる

戦後──国民的登山ブームの到来

昭和31年、日本隊のマナスル初登頂により、空前絶後の登山ブームが巻き起こります。限られた一部の人間の活動だった登山が、国民の楽しみとして広く普及したのです。そうした登山の大衆化を受けた白馬では、山小屋の増築や新設、登山道や麓の受け入れ体制の整備などが急速に進められます。当時、東京・銀座の有名百貨店には白馬山案内人組合による夏山相談所が開設され、夏の白馬には1日あたり数千人単位の登山客が押し寄せ、登山口の猿倉から大雪渓を経て山頂まで、登山者の列が途切れることなく続いたほどです。また同時に、遭難対策も急務であり、昭和31年には長野県警察と連携する遭難者救助隊が白馬に設置されます。この救助隊員を務めたのは、白馬の山に精通し、確かな技術と経験を持つ白馬山案内人組合のガイドたち。以降、現在に至るまで、北アルプス北部登山遭難者救助隊隊員は全員、白馬山案内人組合のガイドが兼務しています。

1948年(昭和23年)
映画「銀嶺の果て」に地元が全面協力。唐松岳などを舞台に撮影
1956年(昭和31年)
2村が合併して「白馬村」に。北アルプス北部登山遭難者救助隊設置
1961年(昭和36年)
初のヘリコプターによる山小屋への物資輸送開始
1962年(昭和37年)
白馬村遭難防止対策協議会設立
1968年(昭和43年)
大糸線「信濃四ツ谷駅」を「白馬駅」に改称
1972年(昭和47年)
「特急あずさ」白馬駅へ乗り入れ開始
1973年(昭和48年)
浩宮さま白馬岳登山

現代──新しい時代の登山に向けて

70年代から80年代にかけて、日本の登山界は国を挙げてヒマラヤ8000m峰への挑戦を続けます。その中で、白馬山案内人の降籏義道が白馬ガイドの伝統とプライドを抱いて日本山岳会チョモランマ(エベレスト)遠征隊に参加します。また、降籏は国内ガイド組織の統一を目指した日本山岳ガイド連盟(現・公益社団法人日本山岳ガイド協会)設立に尽力し、国際山岳ガイド連盟への加盟を実現させます。また、1998年に開催された長野オリンピックは、白馬の美しい山並みがテレビ放映を通じて世界の隅々にまで届いた瞬間でした。そうした国際化というキーワードとともに、現在の白馬登山は、日本百名山ブームに沸く中高年やツアー登山、そしてここ10年間ほどで増加した若い女性たちを中心に大いに賑わいをみせています。自然志向の高まりと同時に、成熟した大人の楽しみとして登山があらたな価値観を得た今、山を安全に楽しみ、白馬の山の深い魅力を伝えるために、白馬山案内人組合の存在意義は高まる一方です。

1980年(昭和55年)
白馬山案内人の降籏義道が日本山岳会チョモランマ遠征隊に参加
1987年(昭和63年)
「冒険とスポーツの国際映画・映像祭」開催
1989年(平成元年)
日本山岳ガイド連盟設立総会が白馬村で開催される
1992年(平成4年)
日本山岳ガイド連盟が国際山岳ガイド連盟に加盟
1998年(平成10年)
長野オリンピック開催
2012年(平成24年)
長野県による「信州登山案内人条例」施行
2016年(平成28年)
山開きを告げる「貞逸祭・白馬連峰開山祭」が50回を数える
2019年(令和元年)
白馬山案内人組合100周年

年譜:白馬山案内人組合資料より
写真提供:白馬館

ページトップへ