白馬山案内人組合を訪ねて~ ガイドを通じて、山を知る ~

山でのいろいろな出会いを
楽しんでほしい

松本 正信
Masanobu Matsumoto

白馬三山を始め、唐松岳や五竜岳など後立山連峰を幅広くカバーする白馬山案内人組合。その組合長が松本正信さんだ。2013年に就任して以来、現在約100名が所属する老舗登山ガイド組合を率い、同時に北アルプス北部地区遭対協救助隊の隊長を務めている。
松本さんは現在70代という高齢ながら、いまだ年間90日は山に入るという現役の登山ガイド。取材日の前日は大町市で夏山開きの安全祈願行事に参加し、スキーを担いで針ノ木岳に登り、ピーク直下から滑走してきたばかりだという。長身で痩身、まるでヨーロッパのガイドを思わせる引き締まった体躯の持ち主である

山が好きで山の仕事をそれがはじまりだった

組合長になって6年。山関係の会議も増えてなにかと大変。でも、それも承知の上、と言う松本さん

ーー松本さんがガイドになって山案内人組合に入るまでの流れを伺いたいのですが、山との最初の出会いはいつごろですか? 「印象的だったのは、中学2年の学校登山ですね。あの当時、白馬中学校では年に1回、夏になると学校行事で白馬岳に登るのですが、その時の感動が今も忘れられないんですよ。自分で米や野菜を担いで登って山頂の村営小屋に泊まり、翌朝、頂上に立った。景色は360度で、日本一の富士山まで見えた。それでいっぺんで山が好きになったんです」 ーーなるほど。 「あの頃は登山靴ではなくて地下足袋で登ってね。大雪渓ではアイゼンの代わりに荒縄を地下足袋にいて、手に持つのはピッケルやストックではなく金剛杖。白馬岳から杓子岳、鑓ヶ岳と縦走して鑓温泉から猿倉に下りた。温泉では、入りたい者は入っていいと先生が言うので、裸になって入った記憶があります。まあ、苦労はあったんだけど、さまざまな山の魅力に触れたんですね ーーご出身は白馬村で? 「そうです。もともと家は農家で、今の旅館業を始めたのは父の代からです。私は白馬高校に進んで、卒業後は白馬東急ホテルに就職しました。教員を引退する父が家で旅館を始めるというので、私もその仕事を手伝うことになり、家業に入りました。農業と兼業の宿屋ですね。ただ、山が好きだったもので、なにか山の仕事はできないものかと考え、常駐隊に入るわけですよ。遭難対策協会の一環で、夏山シーズンの山小屋に常駐する夏山パトロールです。どちらかというと、それまではスキーだったから、本格的に山に取り組んだのはそれからですね」 ーー家の仕事を続けながら、夏は山に篭もったと? 「7月中旬から8月末まで約50日間ですね。たまに休暇をもらって山から下りることもあったんですが、体が山の上の気候にすっかり馴染んでいるから、里へ下りてくるともう暑くてね、眠れなかった夜もありましたよ。夏山シーズンの前後、春と秋は家の農業を手伝うのですが、冬はスキー教師として五竜のスキー学校に行っていましたから、まわりの人からは、よく『ずくなし』だと言われましたよ。長野の方言で、ぐうたらとか、やる気がないという意味。アイツは農家の仕事をほっぽり出して山ばかり行ってると(笑)」

左)スキー教師時代にはポスターのモデルとして滑った。右)著名な山岳写真家の被写体になったことも

ーー当時は、今以上に登山が盛んだったとか? 「盛んでしたねぇ。たしか昭和40年代だったと思いますが、白馬大雪渓を登る登山者が3000人だった日もあったほどです」 ーー1日3000人ですか!? 「そう、1日で。登山口の猿倉から大雪渓を経て山頂まで、途切れることなく登山者の列が繋がりました。山小屋もいっぱいです。今日は申し訳ないけど、廊下に布団を敷いてくださいとかね。避難小屋を兼ねているから宿泊を断ることができないんですよね。玄関のすのこ板にまで布団を敷いている日もあって驚きましたね(笑)」 ーーガイドになろうと思ったのはいつ頃ですか?!? 「常駐隊には13年間いて、最後は副隊長を務めて辞めました。その間に、仕事をしながら山のルートや危険箇所から高山植物に至るまで、山のさまざまなことを覚えていくわけです。それから長野県のガイドの資格を取りました。当時、常駐隊の先輩方もだいたいそんな感じでしたね。常駐隊からガイドになる流れは自然でした。また、私の親戚に七代目の組合長だった福島忠雄さんがいた関係で、家に行けばよく山やガイドの話をしてくれたんです。それも大きかったですね。そんな話を聞きながら、ふつふつとガイドへの憧れが膨らんでいったんだと思います」 ーー登山ガイドを始めるのは常駐隊を辞めてからですか?!? 「そうです。一緒にはできない仕事ですからね。昭和52年だったかな。シャモニーのガイドシステムを学ぶ目的もあって、モンブランに登りに行ったこともあります。雪渓からグーテの小屋に登り、翌日山頂を目指します。8人で行ったのですが、結局山頂に立てたのは私ともうひとりだけ。スローペースだった6人は、前泊の小屋に遅れて着いた時点で、『申し訳ないけど、あなた方は明日はモンブランに登れません』って、ガイドからビシッとクギを刺されてね。ああ、やっぱり本場のガイドはさすがだなと。そうした経験もまた、私のガイド仕事を後押ししてくれましたね」

山でのいろいろな出会いを楽しんでほしい

けっして急ぐことはなく、けれども、一歩ずつ確実な歩みを崩さずに登り続ける。これがベテランガイドのなせる技

ベテランガイドが語る白馬の山の魅力とは

ーー松本さんにとって、白馬の山の魅力とは何でしょうか? 「それはやはり、四季折々の美しい景観ですね。春、夏、秋、冬でそれぞれ楽しみ方がある。冬の寒さと厳しさ、春は若葉、夏は高山植物が咲き乱れ、秋には紅葉で埋め尽くされる。そうした季節の移り変わりが一番の魅力ですね」 ーーこれだけ長い間白馬の山に登られてきて、それでも飽きることはないんですね? 「飽きることはまったくないですね。山は昔から変わらなくても、季節が違えば、日々の天気も違いますし、感じ方も変わってくる。お花畑があり、雪渓があり、岩稜がある。女性的な白馬三山もいいし、どちらかといえば、私は男性的な五竜岳が好きです。季節としては今の時期が一番かな。厳しい冬が終わって、若葉が芽吹くほっとした感じが実に心地いい。また、高山だけでなく里山もいいです。春の新緑の時期には山菜を採ってね。秋にはサルナシやヤマブドウで果実酒を造ったり。そうしたこともまた山の楽しさなんです」 ーー今回、松本さんに八方尾根をガイドしていただき、ガイドと登る夏山登山の楽しさの一端を感じさせていただきました 「ほほう、それはどうして?」 ーー何というか、ただ黙々と歩いていることがない 「まあ、黙って登って、はい山頂に着きました、と。中にはそうしたガイドもいるんですよね。だけど、山頂に着くまでの過程も楽しんでいただくことは重要だと私は思います。ただピークハントするだけじゃ、やはり物足りないし山に登るすべてをいかに楽しく、ほんとに良かったなという印象を持て帰っていただきたいんです

八方尾根の上部、真夏でも水が涸れない八方池。そのほとりにある祠は、稲作が盛んな白馬村にとって、水の守り神でもある

ーーたしかにその通りですね。 「もちろん、安全に登ることが第一優先ですが、その過程では高山植物だったり、岩石だったり、鳥の鳴き声だったり、夜になれば空には星が輝いたりと、いろいろな出会いがあるわけです。それを都会から来た方にお伝えするのも、地元ガイドの使命だと思いますし、オーバーに言えば地球の自然を楽しんでもらいたい。それができるガイドになってほしいと私は思いますね」 ーー登山者としても、ただ山頂に立つだけでなく、登山に深みが出てくるような気がします 「そこが一番ですね。景色だけじゃなく、花や岩や、その山によってそれぞれの顔があるじゃないですか。季節によっても表情が違う。だから、白馬に何回登っても飽きない。ガイドとしてもそうした魅力を伝えることが、自分たち自身の喜びにも繋がっています」

いざとなった時こそ発揮されるガイドの力

ーー安全面で注意されていることはどのあたりですか 「それは季節やルートによっても変わってくるので一概には言えないのですが、たとえば、登山道の歩き方にしても、道のどちら側を歩いたほうが安全だとか、あるいは谷側のほうが風が通って涼しいとか、限られた道幅の中でさえ違ってきます。また、大雪渓には『落石注意』という看板があるんですが、それを目にしているにも関わらず、みなさん下を向いて登るんですよね。でも、私たちはいつ何時も必ず前方を注視して登りますし、休憩中でも絶対に背中を上部に向けることはない。雪渓上では落石があっても音がしませんし、いつ落石が起こるかは誰にもわからない。ですから、つねにそれに備えることが重要なのです」

左)登山道ですれ違った白馬山案内人のひとりと会話を交わす松本さん。
右)傾いた道標を目にすれば、ごく当たり前のように直すのも仕事のうち

ーー大雪渓は夏でも涼しく快適に登れるが、落石もある 「そうです。天然の冷蔵庫みたいなもので、真夏でも涼しく登れますが、注意して登る必要もある。でも、これは大雪渓に限らず、どの山でも危険が潜んでいるのは間違いないわけですから」 ーーその意味でもガイドにお金を支払う価値はある。 「天候が悪くなれば、雨だけならまだしも、それにプラスして必ず風が出ますよね。風は怖いんです。白馬の遭難で一番多いのは、風雨に吹かれた低体温症ですから。稜線は富山側が風が強く、信州側に潜り込めば風当たりも違う。それでも白馬三山では逃げ場が少ないから、杓子岳や鑓ヶ岳の、どのあたりで風をかわして休めるかまでを計算に入れて歩きますし、状況によっては途中で引き返すという判断もあります

残雪を多く残した白馬三山を望む松本さん。この峰々を40年以上歩き続けてきた経験と知識は、確実に次世代のガイドに受け継がれる。それが白馬山案内人組合の伝統だ

いざというときに、どうケアできるか。
ガイドの力はそこだと思います

長野県白馬山岳遭難対策センターは、白馬村交番の隣にある。隣には慰霊碑が建っており、山で亡くなった人の名が刻まれている

ーー晴れていれば問題なくても、状況が悪くなったときに… 「いざという時に、どういうケアができるかどうか。やはり、ガイドの力はそこだと思います」 ーー山の事故はどのような例が多いですか?… 「遭難の事例には必ず理由があります。ひとつは、スリップや転倒といった自分のミステイクで起こるもの。もうひとつは、気象的な判断ミスが多いですね。夏でも天気が崩れれば低体温症になって命を落とす例も少なくない。秋になれば、10月頭でも山には雪が降ります。また、自分の体力を想定できないで、無理をしてしまうケースも多い。長野県の山では、ルートのグレーディングを行なっていますので、ぜひ、それも参考にして下さい。遭難を未然に防ぐためには、自然の中で身を守る全ての準備が大切です」
[ 信州山のグレーディング ]
遭難事故を防止する目的で、長野県と長野県山岳遭難対策協会によって、県内の無雪期の一般的な登山ルートをグレーディングしたもの。全123ルートが記載された表には、縦軸が体力で1~10、横軸が技術でA~Eで、グレーディングされており、わかりやすい。
詳しくはこちら

いざというときに、どうケアできるか。
ガイドの力はそこだと思います

救助隊の装備品には登山道具からレスキュー用具までが揃う

ーー地元に根付いた白馬山案内人ならでは、という点はどこにありますか?… 「やはり、白馬の山をよく知っていることですね。私の家からは白馬の稜線が見えるんですが、朝起きて山を見ると、その日によって表情が違うんですよね。ああ、今日はちょっと厳しい顔をしているなとか、穏やかだなとか。日々、山と顔を付き合わせているから、毎日のコンディションの移り変わりが頭にあるし、山の状況を肌で感じることができる。やはり、そこは違いますよね」 ーーところで、松本さんはいつまで山に登られますか?… 「そうですねぇ、カミさんからもよく言われるんですよ。年取ったんだから、もう現場に行かなくてもいいんじゃないのって。たしかに、昔に比べたら年齢を感じることはありますが、それでも気持ちだけはね。ガイドの仕事はともかくも、足が動かなくなるまでは、山に登ると思いますよ(笑)」

松本正信まつもとまさのぶ 1948年、白馬村生まれ。登山ガイドを経て、現在、白馬山案内人組合組合長、北アルプス北部地区遭対協救助隊の隊長。白馬村飯森地区で「北斗荘」を営んでいる

松本正信まつもとまさのぶ 1948年、白馬村生まれ。登山ガイドを経て、現在、白馬山案内人組合組合長、北アルプス北部地区遭対協救助隊の隊長。白馬村飯森地区で「北斗荘」を営んでいる

  • Text:Chikara Terakura
  • Photo:Hiroya Nakata
  • ※(株)双葉社発刊、雑誌「soto」より転載

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